歴史遺産学科Department of Historic Heritage

髙橋芽生|格知学舎の教育史的性格と「真宗道場」的機能 -「格知寮日記」に見る塾頭と門弟の姿-
山形県出身
岡陽一郎ゼミ

目 次 はじめに/第1章 格知学舎の歴史および先行研究/第2章 格知学舎の教育史的性格/第3章 格知学舎の「真宗道場」的機能と役割/第4章 門弟たちと塾頭の姿/おわりに

 本研究の対象となる「格知学舎」は、貫津村(現天童市)の私塾で、戦後まで存続した。初代塾頭の本沢竹雲が開設し、五八と寿也が跡を継ぐ。「反欧化主義」を貫いた場として知られる。先行研究では、大地主層の門弟は学舎を離反する傾向にあったと指摘し、「竹雲から離れていった門人たち」を22人を挙げる。また、大正期以降の門弟は、浄土真宗の熱心な信仰家だと見出す。しかしこれまで、他校との比較はされていない。学舎の宗教的役割にも目を向ける必要がある。「竹雲から離れていった門人たち」や、五八?寿也の研究も十分ではない。本研究はこれらを課題とした。なお、山形県指定有形文化財の「格知寮日記」の解読も、天童市教育委員会を通して県?所有者に許可をいただき実施した(図1、2)。
 まず、明治期に県内で、格知学舎と同じく漢学を教えた学校を抽出したところ、正心学校?亦楽学舎?明新館の3校があった。これらと比較すると、格知学舎は「民間教育機関」としての立ち位置を確立していた。また、漢詩も指導し、独自の路線で存続した。次に、学舎を「真宗道場」と捉え、交流の実態や学舎が担う役割を分析した。昭和初期までは、約100人が集まる報恩講が学舎で開かれていた。学舎は、定期的に「おみがき御掃除」や「煤払い」をすることで、信仰の「場」の形成を担っていた(図3)。また、周辺地域の寺院での報恩講には、報恩講志を納めたり、手伝いや準備に参加したりしていた。他地域の門徒との交流から、「格知学舎」そのものの信望を得ていたと言える。最後に、門弟の分析をした。「竹雲から離れていった門人たち」のうち、10名は学舎を離れた後も出入りし、うち4名は、昭和期に入っても学舎と関わっていた。また五八や寿也は、来訪者から貰ったお金や品々をこまめに記録し、定期的に勘定した。学舎会計係を任用し決算報告もさせており、経営の才が垣間見える。
 格知学舎は、古めかしいものに縋って生活した印象が先行するが、結髪の廃止や自動車の使用を認めた五八?寿也のように、小さなことでも時代に応じて生活を改めた人物がいたことを強く指摘したい。格知学舎の研究を更新できたものの、課題は多く残る。特に「格知寮日記」は分析の余地を残しているため、今後も積極的に格知学舎の研究に携わっていきたい。

1. 「格知寮日記」 壬号表紙

2. 「格知寮日記」壬号(転載禁止)

3. 学舎の御内仏(先行研究より引用)