歴史遺産学科Department of Historic Heritage

岡田芽生|江戸期の絵図からみた酒井家墓所の景観の変遷
宮城県出身
北野博司ゼミ

 庄内藩主酒井家は徳川家康の重臣で徳川四天王の筆頭とする忠次を始祖として祀る。庄内藩の初代藩主として鶴岡に入部したのは忠次の孫にあたる忠勝である。酒井家の国元の墓所は鶴岡市の大督寺境内にある。江戸期から途切れることなく、埋葬?祭祀が継続されている。本研究は江戸期の絵図に描かれた藩主墓の増築?改築過程などから江戸期の墓所の姿とその変遷を明らかにすることを目的とする。
 絵図の成立背景として天和3年の『大督寺 御霊屋御地形御絵図』(図1)は忠義が逝去した後の絵図であるため、忠義の御霊屋を作る際に作成された絵図と推測する。また、元禄6年の『御霊屋并廻塀共指図』、明和2年の『大督寺 御絵図』は酒井家の大工棟梁である小林家の史料である。それぞれ元禄2年、宝暦6年の火災によって焼失した御霊屋等を再建するために作成された絵図であると推測する。文化3年の『大督寺御入部ニ付指上候扣』(1806)は文化3年忠器が鶴岡入部の際、藩によって作成された絵図である。
 絵図からみた墓域景観の変遷に関しては、親族の御霊屋や忠次~忠勝の御霊屋の移動や御供衆の存在が薄れていっている様子から先祖崇拝の強化や酒井家嫡流の血筋を明確化の表れをうかがうことができる。さらに、参道が「御廊下」へと建築化や藩主墓地が1段高く造設など墓所は大きく変化していった。これは、藩主を祀ることの価値?必要性が高いと思われる傾向になっていったと考えられる。また、大督寺において酒井家墓所の存在がより重要視されていったと推測することができる。
 近代以降の墓所景観の変容は忠発の教導職就任?神道国教化といった宗教政策により、近世の亀趺といった仏式の霊廟建築がたち並ぶ墓地(図2)から、神式の土饅頭に神号を刻む角柱尖頭の墓標が立つ墓地(図3)へと変化した。また、東京の菩提寺の近代化に伴う境内縮小、墓地管理の難しさ等から遺骨?墓標等が鶴岡に移された。現在の墓所はこれらを吸収して整備された近代以降に形成された姿を見ることができる。

1. 「御霊屋御地形御絵図」

2. 近世の仏式墓 12代忠寛

3. 近代の神式墓 11代忠発