歴史遺産学科Department of Historic Heritage

熊倉沢斗|「裏切り」の誕生-新政府側と同盟側からの視点で-
新潟県出身
岡陽一郎ゼミ

 本研究では、戊辰戦争中に行われた北越戦争と会津戦争を取り扱う。そのうえで、本研究では、歴史観というものが非常に大切になってくる。歴史の出来事一つとっても、視点というものがいくつかある。例として戊辰戦争一つとっても戊辰戦争についての評価については、戦争時の立場で大きく分かれている。主に3視点に分かれており①王政復古史観②旧藩史観③藩閥史観という上記の3つの視点が存在する。 本研究では、②の旧藩史観と③藩閥史観を参考に研究を進めていくことにする。
 地元である新発田藩は、戊辰戦争時、同盟側に所属しながらも最後に新政府側についた。そのことから「裏切り者」と一部で呼ばれてしまった。新発田藩の当時の動向を踏まえながら実際にどこから「裏切り者」という言葉が出てきたか、そしてなぜ「裏切り者」と呼ばれてしまったのかを実際に確かめていく。新政府側と同盟側の2つの視点で、先行研究や自治体史を使って検証を行う。下記の図1は、新発田藩と新発田市を表した図である。オレンジ色の部分が新発田市、黄色の部分が新発田藩である。
 最初に新政府側の検証を行うことにする。新政府側として中心となった薩摩藩?長州藩?土佐藩の視点を検証していくことにする。新政府側の自治体史や研究史では、新発田藩が「裏切り者」またはそれに近い意味を含む言葉は出てこなかった。資料なの中には、新発田藩という単語すら筆者が確認する限り出てこなかった。そのため新政府の中核を担った薩摩藩?長州藩?土佐藩からしたら新発田藩が同盟を脱退したということは、そこまで影響はなかったのではないかと推測できる。
 次に同盟側の検証を行っていくことにする。同盟側の視点として奥羽越列藩同盟の中核を担った米沢藩、仙台藩、会津藩を見ていくことにする。ここも先ほどの新政府側の視点と同じように現代に近い自治体史と戦争時に近い時代に発行された資料を使って検証を行う。まず仙台藩、米沢藩の自治体史と研究史からは、戊辰戦争時の新発田藩に対する記述は見られなかった。そして重要なとなるのが会津藩の史料についてだ。会津藩についての史料では、新発田藩に対して反覆と反盟という表記がなされていた。また他の会津藩にかかわる史料の中でも新発田藩の「裏切りに」関する文面は、多数確認することができた。

1. 新発田市と新発田藩の位置関係を表した図

2. 奥羽越列藩同盟加盟藩