第13回 卒業の先に~サイモン&ガーファンクルの巻|かんがえるジュークボックス/亀山博之

コラム

卒業おめでとう

 後期の授業が終われば、卒業の季節がもうすぐそこだ。この春、卒業するみなさま、おめでとうございます。
 さて、卒業といえば、1967年の映画『卒業(The Graduate)』が真っ先に頭に浮かぶ。なので、この映画の音楽を担当したサイモン&ガーファンクルを今回のコラムで取り上げようかと安直に考えている。だがしかし、映画『卒業』の内容および使用楽曲、どれをとっても、卒業する方々の門出を祝うようなものがない!「サウンド?オブ?サイレンス」「ミセス?ロビンソン」「スカボロー?フェア」???それぞれ名曲ではあるが祝賀ムードは、ない。

映画『卒業』
映画『卒業』
 

 ご存じのように、ダスティン?ホフマン主演の映画『卒業』は、不純?不満?不安のオンパレードである。というわけで、サイモン&ガーファンクルの曲で卒業にふさわしいと思われる曲を、この映画のサントラ以外から探す必要があった。そして、わたしのレコード棚から見つけ出したのがこれだ。そう、これから先、どんな荒波があろうと力強く進んで欲しいという、親心にも似た気持ちを込めて選んだこの1曲!「明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)」を聴こうではないか。

 「明日に架ける橋」が発表されたのは1970年。ビートルズの「レット?イット?ビー(Let It Be)」とともに、この年の「寄り添い系」2大名曲とも呼べるものだ。

2人のポール、2人のマリア

 ポール?サイモンが「明日に架ける橋」を書くきっかけとなったのは、マリア(Mary)であるそうだ。2023年に出版された栩木伸明の『ポール?サイモン全詩集を読む』がこのことを詳しく紹介しているのだが(p.133)、ゴスペルソングに登場する「マリアよ、泣くな」という一節にピンときて曲が生まれたというのだ。ただし、これはイエス?キリストの母マリアではなく、弟ラザロを亡くして嘆いていたマリアという女性のことらしい。で、キリストがラザロを蘇らせてあげるのだとか。つまり「明日に架ける橋」は宗教的な意味合いを備えた歌なのだ。

「明日に架ける橋」日本盤シングル
「明日に架ける橋」日本盤シングル
 

 そういえば、ビートルズの「レット?イット?ビー」にもマリアが登場する。つらい状況に陥って嘆いているところに聖母マリア(Mother Mary)がやってくるわけだが、こちらのマリアはポール?マッカートニーが14歳のときに亡くなった実の母のことだといわれている。2人のポールがそれぞれ異なるマリアにインスピレーションを得て、1970年の2大「寄り添い系」至極の名曲をつくったというのは、単なる偶然というひと言で済ませていいものか。

Mother Mary
Mother Mary
 

 1970年、フラワーパワーはうまくいかず、戦争は終わらず、目の前に広がるのは不透明な未来だけ???困難な状況に手を差し伸べてくれるようなマリア様の存在を人々は求めていたということか。まあ、困難でない時代なんてものは、そもそも存在することはないのだろう、とも思う。あちこちにマリア様みたいな人がいるわけでもないだろうし、だからこそ、寄り添ってくれる友が大切なのだ。

徒歩でも船でも

 さて、この壮大なサイモン&ガーファンクルの「寄り添い」ソング、こんな歌である。

When you’re weary, feeling small
 きみが疲れ果て、滅入っているとき
When tears are in your eyes,
 きみの目に涙があふれていたら
I will dry them all
 ぼくが涙を拭こう

I’m on your side
 ぼくはきみの味方
When times get rough
 困難なとき
and friends just can’t be found
 友だちも見つからないとき
Like a bridge over troubled water
 激流に架かる橋のように
I will lay me down
 ぼくが身を投げ出すよ

 つらいときに、献身的な友だちがいるのは何よりありがたいことだ。この曲は宗教的な意味合いを含んでいると先に述べたが、このことは「ぼくが身を投げ出すよ(I will lay me down)」という一節からもわかる。本来なら、わたし(I)が自分(me)を横たえる(lay)ならば、 “me”でなはく再帰代名詞の“myself”を用いないといけない。しかしそうしていないのは、“lay me down”というフレーズ自体、キリスト教のお祈りの言葉にあるもので、1970年の時点ですでにかなり古風な言い回しをあえてポール?サイモンは使っているのだ。

 さて、最後のスタンザには、長年のあいだ議論されてきた“silver girl”が登場する。「銀の少女」だ。麻薬の注射針のことを指しているとか、今まであれこれ勝手な解釈がなされてきた。

Sail on silver girl
 銀の少女よ 漕ぎ続けるんだ
Sail on by
 漕いでこっちにおいで
Your time has come to shine
 きみが輝くときが来た
All your dreams are on their way
 夢がかなうんだ
See how they shine
 輝いているだろ

If you need a friend
 友だちが必要なら
I’m sailing right behind
 ぼくがぴったりうしろに船を漕いでいるよ
Like a bridge over troubled water
 激流に架かる橋のように
I will ease your mind
 ぼくがきみをなぐさめるよ
Like a bridge over troubled water
 激流に架かる橋のように
I will ease your mind
 ぼくがきみをなぐさめるよ

 銀の少女とは一体誰なのか?結論からいえば、これはポールが当時同棲していた女性ペギーが、自分の髪の毛に白髪を何本か見つけて大騒ぎしたというエピソードが元になっている(栩木、134)。白髪が2,3本あったからといって、そう慌てることはないのだ。人は誰も老いる。成長だ。いつだって今の自分を卒業し、次の次元の自分へ進んでいくのだ。

 ここでふと思った。「銀の少女」は白髪のある女性であることはわかったが、その彼女は“sail on”(漕ぎ続けろ)と励まされているから、きっと船かボートに乗っていることであろう。では、船かボートに乗っている人に対して「橋のようになって」励ますとはどういうことか。濁流の上に架かる橋を渡る人の交通手段はふつう、徒歩か自転車かクルマだろう。だから“Walk on silver girl”(歩き続けるんだ、銀の少女よ)とかいったほうがこの詩の一貫性(coherence)が保てたのでは?なんて思ったりして???。ま、いいか。こんなケチをつけるのは、詩の楽しみ方としては無粋だ。失礼しました。そうだ、人生は比喩なのだ。

東北芸術工科大学の「鏡橋」
この「鏡橋」を渡って一歩踏み出せば卒業
 

 一番言いたかったことは、荒波が迫ろうとも、いつも寄り添ってくれる人がいてくれるとは、なんと心強いことか、ということだ。あらためて、卒業するみなさん、おめでとう。大学の入り口に架かる「鏡橋」を出たらいよいよ卒業だ。この橋を渡った先にある未来には、困難なことがきっとあるでしょう。「かんがえるジュークボックス」もひそかにあなたの橋となりこれから先も応援します。

 それではまた。次の1曲までごきげんよう。
 Love and Mercy


【参考文献】
栩木伸明『ポール?サイモン全詩集を読む』国書刊行会、2023年。

(文?写真:亀山博之)

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亀山博之(かめやま?ひろゆき)
亀山博之(かめやま?ひろゆき)

1979年山形県生まれ。東北大学国際文化研究科博士課程後期単位取得満期退学。修士(国際文化)。専門は英語教育、19世紀アメリカ文学およびアメリカ文学思想史。

著書に『Companion to English Communication』(2021年)ほか、論文に「エマソンとヒッピーとの共振点―反権威主義と信仰」『ヒッピー世代の先覚者たち』(中山悟視編、2019年)、「『自然』と『人間』へのエマソンの対位法的視点についての考察」(2023年)など。日本ソロー学会第1回新人賞受賞(2021年)。

趣味はピアノ、ジョギング、レコード収集。尊敬する人はJ.S.バッハ。