前回、飛行機に乗り遅れそうになった話を書いたが、飛行機トラブルでよくあるのが、急な欠航や目的地に着陸できずに別の空港に降ろされること。私の場合はみな最終便の出来事なので、それぞれ楽しいエピソードが付いてくる。
海外では勘違いして一日早く行ってしまい、金が尽きて空港で寝たこともある。発熱した時は一晩つらかったが、何事もなければ24時間空港はさほど退屈しない。
出発時のトラブルで思い出すのは2014年2月の仙台空港。前年秋に就航したタイ航空バンコク便を利用しようと、朝から車を飛ばして9時に空港に着いた。勇んで2階に上がると国際線カウンター前が「がら~ん」。客どころか空港職員もいない。
むむ…またやってしまったか。いや予約した時点でがらがらだったのでやっぱり客が少ないのか。それとも、ちょっと早く来てしまったかと…(それはない。出発は10:30で国際線は2時間前にチェックインが常識)。
大きな荷物を持って無人のフロアにたたずんでいると、
「お客さん!」
「キタノさんですか?」と扉を開けて奥から職員が出てきた。
「はぁ???そうですが(無表情)」
「申し訳ありませんが、バンコク便、欠航です…」
「4日前に決まって電話したんですが」
「電話しましたし、メールもして、ファックスもしたんですけど」
「他のお客さんは早朝便でみんな成田に行きましたよ」
そこまで言われると、怒る前に「なんでぇ~」となる。
家に電話して確認するとメールは来ていない。5日連続出張で前日夜に帰宅したばかり。留守電は? ファックスは紙が入っていなかった。後で入れてみたら確かに欠航案内が来ていた(すでに遅し)。3重の防波堤が軽く突破された(危機管理能力ゼロ)。
「で、どうしろと?」
「恐れ入りますが、成田に行ってください!」
「仙台発15:10です。成田発17:30のバンコク便があります。(職員笑顔)今日中にはバンコクに着けますよ」
「あっ、そう…(引きつった笑顔)そういえば、私、バンコクで乗り継ぎがあるんですが…間に合いません」
「では、ホテルと振替便のチケットを用意させてもらいます(笑顔)」
この辺りから視界が明るくなってきた。以前にもこんなトラブルで豪華ホテルにただで泊まれたからだ。さて、では15:00過ぎまでどうするか、と思案していると
「このクーポンをお使いください(笑顔)」
1,500円の昼食クーポンだ。
「ありがとうございます(笑顔)」
「仕事したいんで、電源とデスクないですか?」
「それでは、ビジネスラウンジをお使いください」
「ニッコリ(*^_^*)」
飲み物をいただきながらゆっくりくつろぐことができた。お昼はレストランで牛タン定食を食った。
成田では乗り継ぎ時間がないので、係員のお迎え付き。裏道をショートカットするVIP待遇。さらに機体は最新鋭の総2階建てエアバスA380。日本では2019年にANAが初めてホノルル路線に導入したばかり。残念ながら2階席ではなかったが、映画をちょっと観て、あとは1列4席を独占して、横になって寝た。バンコクは暴動のせいで日本人観光客が激減していた。
22:30(日本時間0:30)バンコク到着。「着いたら、待ってますから」というタイ航空の係員が見えない。チケットセンターに行って事情を告げると、即座に宿に電話してくれ、しばらくするとお迎えが来た。自分では絶対に予約しないような豪華なホテルで、食事も付いて、翌朝空港まで送ってくれた。国内線でコンケーンまで飛んで、ドライバーと合流。この間、すべて無料。半日遅れはしたが、その後の一週間、トラブルに余りある濃い中身だった。
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学生から「先生はどこの国が一番好きですか」と聞かれると、「ラオスがいいなあ」と答える。
海外には毎年行くが、ほとんどが調査なので観光地はあまり行ったことがない。あちこちの国に行くのではなく、同じ地域、同じ村に何度も通う。特にタイとラオスには定点観測している村があるのでよく行く。馴染みのおばあちゃんたちと会うのがとても楽しみなのだ。
次に、なぜラオスが好きかと聞かれる。
ラオスと言えば、村上春樹の紀行文に『ラオスにいったい何があるというんですか』(2015年 文藝春秋)という本がある。この言葉はラオスを語る時の常套句であるが、「ラオス(なんか)にいったい何があるというんですか?」という問いは反語である。「何もない…しかし大切な何かがある」ということを含意している。
製造業が未熟で、車やバイクは韓国、中国、お店で売っている什器や雑貨、菓子類はほとんどタイやベトナムなどアジア隣国からの輸入に頼っている。インフラ整備も遅れていて道はよくない。幹線道路の舗装は薄く、未舗装区間も少なくない。建設業は海外の資金援助が頼りである。過半を占めるラオ族中心の国家であるが、山麓や丘陵地には少数民族も多い。
2011年のお正月から通っているオイ族※ のC村は、最初は電気もトイレもなかった。精霊信仰に基づくタブーがあり、独特の社会組織がある。とはいえ、里での定住化、ラオとの近住、教育普及、多収穫米の導入など、数々の近代化が図られ、エスニシティ(民族性)の揺らぎも見え始めている。
※オイ族:ラオス南東部アッタプー県に住むモン?クメール系少数民族。
一言で表現するなら、物質的豊かさはないが、人と人とがつながる仕組みや、自然と折り合いながら暮らす精神、技が息付いている、ということだろうか。村上春樹はラオスの風景には「匂いがあり、音があり、肌触りがある。そこには特別な光があり、特別な風が吹いている。何かを口にする誰かの声が耳に残っている」そして「その時の心の震えが思い出せる」という。私たちは思いもかけず、美しいもの、大切なものに出会った時、「心の震え」を感じる。雷に打たれたようなショックの時もあれば、じわじわとやってくることもある。そんな体験をあなたはいくつしてきただろうか。
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次の質問は、現地では一体何をしているの?
土器作りの技術と一口に言っても粘土の採掘から土練り、成形、焼成、荷造り、販売と様々な局面がある。それぞれ観察やヒアリングによって「工程、道具、身体動作」を記録(写真、動画、実測)する。女性たちは早朝から夕方まで、一抱えもある壺を1日10個余り作る。壺は何回かに分けて板で叩いて膨らませるのだが、一度にやってしまうと自重でつぶれるので、途中で2度、3度乾燥させる。このタイミングは朝ごはんや外気温上昇の時間とリンクしている。要するに技術は単独で存在しているのではなく、気候や生活リズムなど、他の諸要素と密接に関連している。
民族誌調査はその全体像を記録して、つながりの意味を探る調査とも言える。したがって、現地アシスタントと複数の研究者らによる共同調査となることが多い。定点観測するのは、それらがリアルタイムで変化しており、伝統技術の変容のメカニズムを知りたいと思うからである。現代の文化とはいえ、考古学者が過去のことを解釈する際のモデルづくりや、思考の柔軟性を高めるのに役立つのである。
タイやラオスの地方都市では日常の調理にもう土器を使うことはないが、今でも新築儀礼(クンバンマイ)や結婚式、お葬式でしばしばこれを使う。田舎ではまだまだ現役だ。特に水甕は表面に滲み出た水分が蒸発する際に熱を奪う(気化熱)ので飲料水を保冷できる。冷蔵庫で冷やした水よりも体に優しくておいしいという。苗木の根元において水やりポットとして使うのも人気がある。
そんな土器作り村もここ20年で半数以下に減ってきた。農村ではウシや水牛、ブタ、ニワトリ、アヒル、イヌなど、あまたの動物が人と混然一体となって暮らしている。明治初めに日本の東北地方を旅行したイザベラ?バードはそんなありさまをみて、不衛生極まりない、未開人のようだと酷評した。文明国イギリスのアッパー?ミドルの人たちはこれを読んで留飲を下げた。
ラオスの田舎では生ごみがでない。余ったご飯は蒸し直して食べるし、天日に干して壷酒の材料にする。籾を搗いて出るくず米はトリの餌、残飯は家畜が食べる。兄弟が多くて乳にありつけない子犬に乳を飲ませるブタ、ニワトリに体の虫をついばんでもらって気持ち良さそうに寝ているブタを見ると何とも微笑ましい。アヒルはブタと一緒になって餌箱をつついている。
土器を実測していると子犬や猫が膝に乗ってきて邪魔をする。村の中はウシや水牛の糞だらけだ(ただの糞と侮ってはいけない。中にはおいしい糞虫がいるし、ミャンマーでは捏ねて乾かした「牛糞せんべい」が土器焼きの貴重な燃料となる)。
飲料水も問題が多い。西洋医学的には不衛生かもしれないが、住民たちはその土地の暮らしにあう免疫システムを持っている。一緒に行ったある学生は、そんな住民らの暮らしを先進国の色眼鏡で見ないと誓って村に入り込んだ。自然と共生する彼らの暮らしぶりや、一方で急速に普及する携帯電話というアイテムに驚きや発見をもって接したが、帰ってから一つ打ちのめされたと吐露したのは、いかんともしがたい身体の違いだった。同じものを食って簡単にお腹を壊す自分のひ弱さを実感したのだという。そんなところまで同じ人間である必要はないのだが、我々も子供のころ腸にいろんな寄生虫を飼い、それによって花粉や皮膚病に抗する免疫を持っていた。当の学生のように知識として知っていることでも、現場で体験し、思考することでリアリティをもって自文化の足元を見つめ直すことができる。
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私のもう一つの楽しみは床屋である。
日本を発つときは冬が多いので、現地に着くと暑いのである。ラオスのサワンナケートで行ったのは露店食堂の一角にあった小さなお店。といってもワンルームの普通の家で娘が傍らで寝そべって宿題をしていた。壁に掛かった大きな鏡の前に座ると、お母さんが小さな両刃のカミソリで、カットから顔そりまで全てやってくれた。もちろんクリームなど使わない。
Lak35という町の市場の向かいに小さな床屋がある。2013年まで爺さんが一人でやっていたが、翌年バンコクで5カ月修行した孫が帰郷し、仲良く隣り合わせで営業していた。爺さんは103歳。翌年聞いたら108歳になっていた。震える手でバリカンを握り丁寧にカットしてくれた。2015年に行った時にもう爺さんの姿はなかった。どうしているだろうか?
アッタプーではゲストハウスの近くに早朝からやっている床屋があった。調査仲間だったタイ人のC先生(当時60歳)が朝のランニングの帰りに頻繁に通っており、行ってみろと勧めてくれた。大して髪の毛もないのにと不思議に思っていたら、カットしてくれたのが笑顔の素敵なラオス美人だった。私はその時は一度しか行かなかったが、ゼミ旅行の時に思い出して学生ともう一度に行ってきた。
なぜ、旅先で髪を切りたくなるのか。
まず安い!タイ、ラオスなら50~100円でカットできる。昔の床屋の面影があってノスタルジックな気分でリラックスできる。タイでは日本と同じように軽くマッサージしてくれるところもある。最低でも「どこから来た?どれくらい切る?」と会話が生まれる。床屋には人の心を穏やかにし、言葉は通じなくても肌が触れ合うコミュニケーションがある。雑誌やポスターを見たり、他の客のウォッチングも面白い。
理由を挙げるともっともらしいが本当のところはよく分からない。確かなことは、旅にはたくさんの出会いがあり、ストーリーがあるということ。旅先の床屋は私の思い出が詰まった場所である。そんな場所がたくさんあると人生はきっと楽しくなる。
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世の中は予定外のことがよく起こる。危機(全て自分で蒔いた種だろ、という誹りが聞こえてきそうだが)の最中は冷や汗、ドキドキものだが、後から振り返るとみんないい思い出だ。あえて火中に飛び込む必要はないが、降りかかる火の粉から身を守る術は身に付けておいた方がいい。若いうちから小さな修羅場をいっぱい経験しよう。
不確実性に満ちた世界を楽しむために、私はまた旅をする。(続く)
(文?写真:北野博司)
関連記事:
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タイ?ラオス旅から、危機との向き合い方を考えた|駆けずり回る大学教員の旅日記 #02/北野博司
北野博司(きたの?ひろし)
富山大学人文学部卒業。文学士。
歴史遺産学科教授。
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専門は日本考古学と文化財マネジメント。実験考古学や民族考古学という手法を用いて窯業史や食文化史の研究をしている。
城郭史では遺跡、文献史料、民俗技術を駆使して石垣の構築技術の研究を行っている。文化財マネジメントは地域の文化遺産等の調査研究、保存?活用のための計画策定、その実践である。高畠町では高畠石の文化、米沢市では上杉家家臣団墓所、上山市では宿場町や城下町の調査をそれぞれ、地元自治体や住民らと共に実施してきた。
自然と人間との良好な関係とは、という問題に関心を寄せる。
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