年度末にちょっとしたハプニング。
3月20日夕方6時過ぎ、仙台空港アクセス線の電車内で宮城県沖地震に遭遇した。もうすぐ空港駅到着というところで電車は緊急停止し、車内に缶詰。一斉に鳴り出す緊急地震速報と地震の揺れ(震度5強)、津波注意報のアラームで車内は一瞬騒然とした。小一時間して降ろしてもらえたので、線路を歩いて空港駅へ。しかし津波注意報が出たままで空港機能はストップ。もちろん全便欠航。8時になって解除されたので下道を走るバスを乗り継いでなんとか山形に帰った。近頃、本当に地震が多い。
例年、年度末の3月はどこの自治体も会議ラッシュ。しかし、このコロナ禍、対面会議は減った。リモート会議への対応が遅れた自治体でもこの時期になってようやく体制を整えた所もある。なかなかそうもいかない所では大量の資料が送られてきて意見を述べる、いわゆる書面会議。駈けずり回らずに済んだとはいえ、大部な資料を読むのはそれはそれでつらかった。対面(県内と東北各県)、リモート、書面の割合はそれぞれ1/3ぐらい。
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宮城、山形に県独自の緊急事態宣言が発出される前、いくつかのお城に出かける機会があった。
その一つが金沢城跡。このお城は私が石垣研究を志すきっかけになった場所である。
1998年6月のとある日の夜、上司から一本の電話が入った。「人が足りないから、急だけどお前、金沢城に行ってくれ」と。急きょ金沢城跡の調査担当になった。
信心深い真宗の家に育ったせいか、一向宗門徒を虐殺した織田?豊臣進駐軍のシンボルである「お城」は好きにはなれなかった。仕事だからと仕方なく先行研究を調べたり、史料を読んだりする日が続いたが、そんな気持ちを変えさせてくれたのが「後藤家文書」だった。加賀藩で江戸後期に普請奉行配下?石垣方にあった後藤彦三郎が書きためた文書群である。金沢城の来歴、石垣の秘伝技術、先祖由緒等からなる(『金沢城郭史料』)。翻刻されていたが、古文書に疎い考古学者には楽な作業ではなかった。しかし、目の前にある石垣について、当時の技術者が解説、論評している記述は実に興味深いものだった。次第に石垣めぐりが楽しくなっていった。
明治以降、金沢城の跡には陸軍が入り、戦後は金沢大学が置かれた。大学は1995年までに郊外に移転したが、まだ大学があったころに一度だけ構内に入ったことがあった。当時、職場の先輩に案内してもらったのが「色紙短尺(冊)積」石垣だった。石川県体育館裏の鬱蒼した木々の間から忽然と現れたその姿に「なんや、これは」と驚いた記憶が残っている。いまや金沢城跡のアートな石垣を代表する作品の一つとして知られている。
「色紙短尺(冊)」とは書画に用いる「色紙」と「短冊」を指す。石垣デザインの基調となる正方形と長方形の石をそれぞれに見立てた彦三郎オリジナルの命名である。当時からこの名前が一般化していたわけではない。この石垣の上部にはV字形の石樋(黒い石)が組み込まれており、滝つぼに流れ落ちた水は、斜面にある段落ちの滝を下り泉水に続いていた。
白眉の出来を誇るこの石垣は、単体であるのではなく、藩主が住む二ノ丸御殿の御居間先下、玉泉院丸という城内庭園の借景をなす石垣群の一つである。寛永年間(17世紀前半)に原形ができ、寛文~元禄期(17世紀後半)に修築されて現在の姿が完成した。加賀藩穴生職、後藤家三代目権兵衛らが関わった。
この石垣に行くには、尾山神社側から2020年7月に完成した鼠多門をくぐり、玉泉院丸にでて休憩所「玉泉庵」から見るのがいい。県体育館が取り壊され、平成20年度から5年間発掘調査をして、文化財庭園として現在の姿に整備された。個々にしか見ることができなかった多様な「切石積石垣」がようやくパノラマとして一望できるようになった。
金沢城の石垣石は「戸室石」という安山岩を使っている。柔らかい赤と青の色を基調とし、石材の側面を丁寧に加工して目地がぴったり合うように積んでいく。
石材はもともと正方形や長方形が基本であるが、やがて角が欠けると修理の際に石材を有効に使うために角を斜めに切り落とし多角形に加工した。複雑な目地文様がパッチワークのようなデザインとなる。同じ角欠け石の再利用でも、藩主御殿の入り口の橋爪門(文化5年の火災で焼損)では斜めに切り落とさず、L字型に加工して組み合わせていく。いわゆる「四方積」を継承する。彦三郎流五行説では四方積は、城の中央部に用いる石積みとしており、その通り息子の小十郎が修理工事を行った。
後藤彦三郎は城内にある多様な意匠の石垣を「陰陽五行思想」や「真行草(芸道の格式)」で説明した。「陰陽五行説」は複雑な世界を「陰?陽」の調和や万物のもと「五行(木?火?土?金?水)」から説明する。色や方位、季節とも対比させる。例えば、金沢城では二の丸の北側にある土橋門の石垣に亀甲石(正六角形)がある。これは彦三郎が土橋門の石垣を修理した際に火除けの願いを込めて組み込んだものだ。亀は水に住み、北を守護する四神の玄武(蛇と亀が合体)にあたる。石垣修理してほどなく文化5年(1808)に二ノ丸御殿は大火に見舞われ焼失したが、亀甲石のおかげで土橋門は類焼を免れたと。
三十間長屋の金場取り残し積みや尾坂門の鏡積みには縦置き、横置きの役石があるが、それぞれ陽?陰に見立てて調和を保つのだという。
彦三郎は下級武士の家から「穴生(石積み専門職)」の家に婿養子に入り、後藤家六代目を継いだ。根っからの職人でなかったハンディを、軍学?算術、家業代々の書物に学び、現地を丹念に歩きまわることで、藩の役人も一目置く技術者としての地位を築いた。
金沢城跡の石垣がおもしろいのは、歴代の藩主がお庭やお茶のような数寄空間に石垣を多用し、独自の庭園石垣の世界を生み出したことが大きい。しかしそれだけではない。彦三郎は、これを自然の成り立ちと調和、芸の道の思想と対比させ、統一的に説明しようした。当時の殿様や茶室?庭園設計のデザイナーが芸術家なら、彦三郎もまた芸術的感性豊かで、クリエティビティのある人物だったに違いない。金沢城公園の石垣回廊の説明版には随所に彼の語りが引用されている。
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日ごろ、石垣が手の届く距離にあれば、目の前で見るか、よじ登っていって観察する。しかし、水堀の前ではどうしようもない。最近はレーザー計測の点群データ、写真による三次元データを加工して、凹凸、陰影を強くすることもできるようになってきたが、手っ取り早く観察するには対岸から双眼鏡で覗くか、望遠レンズで撮った写真を観察する。そうなると調査する時間帯が極めて重要になる。石材表面のノミ加工や矢穴の痕跡は斜光でなければよく見えない。
幕府が配下の諸大名に号令して築城した「公儀普請」の城石垣には担当した大名、大名家の家臣らが分担した「刻印」が打たれている(写真)。元和6年(1620)から寛永5年(1628)にかけて作られた徳川期大坂城は西国の大名たちが石垣工事を分担した。ここの刻印は見ていて飽きない。
あらかじめ調査対象の石垣を決めると、どの方位に面が向いているのか確認する。そして、最も刻印のコントラストが際立つ時間帯を見定めて1時間ほど集中的に勝負する。大坂城跡は本丸、二ノ丸の石垣ともおおむね東西南北正方位を向いているので、簡単だ。午前中早い時間は南面か北面を狙う。太陽が南中するお昼前後は東面、西面ということになる。悠長に昼飯を食っている暇はない。
双眼鏡で思い出すのは、山形に赴任して間もない2000年夏の江戸城跡外周石垣の調査。竹橋から平川門あたりで警察官に呼び止められた。皇宮警察による職務質問である。九州?沖縄サミットの1週間前で、特別警戒中だったらしい。腰手ぬぐいをつけた作業服のおじさんが堀の対岸から双眼鏡でじっと中を観察し、メモを取っている姿は怪しいといえば怪しい。朝一からの居場所と時刻が細かく記録されていた。職質に応えていた時間がどれくらいだったかもう忘れたが、目的を言ってもなかなか信じてもらえなかった。さすが皇宮警察と感心した覚えがある。
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このような調査をしていて困るのが石垣表面の付着物、汚れである。金沢でも大阪でも、近年石垣の汚れが目立つようになってきた。酸性雨、すなわち大気汚染物質の付着が原因らしい。
大坂城跡の石垣はずいぶん前から黒ずんでいて、部分的に表面の刻印や加工が見えづらい。水堀では高水位期に水面下にあった下部の白さが際立つ。かといって、ハイプレッシャー?ポンプ等で洗浄すればよいというと単純な話ではない。洗浄して、表面をコーティングしている膜をはがしてしまうことは石材の劣化を招いたり、新たな付着物を誘引してしまう可能性がある。コロナ禍で手をアルコール消毒しすぎて角質層の皮膚バリアを壊してしまうのと同じである。文化財石垣の管理は、これから酸性雨との付き合い方も視野に入れていかなければならない。
酸性雨も感染症によるパンデミックも人の営為が生み出したものである。克服を目指すのではなく、様々なリスクを最小化する取り組みを模索していくしかない。黒ずんだ石垣をながめながらそんなことを思っていた。(続く)
(文?写真:北野博司)
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北野博司(きたの?ひろし)
富山大学人文学部卒業。文学士。
歴史遺産学科教授。
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専門は日本考古学と文化財マネジメント。実験考古学や民族考古学という手法を用いて窯業史や食文化史の研究をしている。
城郭史では遺跡、文献史料、民俗技術を駆使して石垣の構築技術の研究を行っている。文化財マネジメントは地域の文化遺産等の調査研究、保存?活用のための計画策定、その実践である。高畠町では高畠石の文化、米沢市では上杉家家臣団墓所、上山市では宿場町や城下町の調査をそれぞれ、地元自治体や住民らと共に実施してきた。
自然と人間との良好な関係とは、という問題に関心を寄せる。
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